野球素人です。斎藤佑樹が今一パッとしなくなった原因は、大学を選ん

野球素人です。斎藤佑樹が今一パッとしなくなった原因は、大学を選んだからですか? 高校卒業時にそのままプロにいけばそれなりに活躍できてましたか?



<甲子園特集> 中田翔を変えた斎藤佑樹の17球。~4打席全対決を振り返る~
3年前の夏、2年生の“怪物”スラッガーは、一人の静かなエースの前に4打席3三振を喫した。自身にとってもチームにとっても想定外の敗北――。両者の雌雄を決したポイントは、どこにあったのか。
「これ、ボールでしょう? こうやって改めて見たら、メッチャ高いですねぇ」
淡々と話していた中田翔の声のトーンが急に変わり、新発見でもしたかのように同意を求めてきた。3年前の夏の、あの4打席を振り返るため、モニターに第1打席の、それも第1球の様子が映し出された瞬間だった。
「打席にいたときは、ああストライクか、という感じで受け取っていて、ボールだなんて全然思っていなかったんですけどね」
どこか他人事のように聞こえる語り口。だからこそ逆に、どれほど悔しかったかが伝わってくる。その悔しさこそが、プロではバットマンとして生きる道を選んだ彼の出発点にもなっているのだ。
「天狗になっていた」中田、斎藤は「ノーマークでした」。
2006年8月12日、第88回選手権大会の7日目第4試合。2年生の中田翔が4番に座る大阪桐蔭は早稲田実業のエース・斎藤佑樹と対峙した。早実は開会式直後の第1日目に鶴崎工業を13対1で下し、大阪桐蔭も同日、横浜を11対6という大差で破っての2回戦進出。第2戦までのインターバルは共に5日間。相手を分析する時間は十分あったが、中田は斎藤を「ノーマークでした」と振り返る。
「自分たちの力を普段通り出せば手こずるピッチャーではないだろうと周りも言っていたし、自分もそう思っていました。
今思えば、ホッとした部分が絶対にありました。横浜戦の後のことは一切、考えていなかったですからね。あの横浜にあれだけ大差で勝てたので、チーム全員が天狗になっていたとも思います」
前年夏、優勝した駒大苫小牧に屈したものの4強入りした大阪桐蔭。その中軸でプロも注目する中田が残ったチームの下馬評は高かった。1回戦で下した横浜は、この年のセンバツの覇者。これで大阪桐蔭が波に乗って一気に優勝、という可能性が生まれたわけで、中田たちが天狗になるのも無理からぬ部分があった。そんな心理が相手の早実に有利に作用したのは間違いない。全て結果論だが、甲子園を制するチームには必ず、こんな“追い風”が吹く。何しろ早実は、この時点では全く優勝候補に名前の挙がるチームではなかったのだ。そのエースである斎藤も、ほとんど一人でマウンドを守っていたからスタミナは評価されていたが、さほど注目される存在ではなかった。
監督の立てた斎藤対策は「覚えていない」。
大阪桐蔭の西谷浩一監督の立てた斎藤対策は「低目の変化球は捨てて、高目を叩け」だったが、中田は「覚えていない」という。
「僕、そういうのは基本的に一切聞かないんですよ。自分のスタイルでいかないと打てないんです。変化球に手を出さずに、とか考えていたら、かえって力み過ぎて手を出しちゃうんですよ(笑)。皆は『2ストライクまで追い込まれたら、この変化球で勝負してくる』とか、細かく分析していたんですけど、自分は全然そんなのを頭に入れずにいきました」
では中田流の投手分析はどういうものかというと、球が速いか、遅いか? 変化球が切れているか、どうか? つまり、相手投手の一つ一つの球種の印象を頭に入れるだけ。基本的に“来た球を打つ”タイプなのだ。それで高校通算87本(歴代1位)のホームランを打ったのだから、ポテンシャルが桁外れに大きいのだろう。興味深いのは、狙い球についての考え方だ。
「(斎藤投手は)真っ直ぐに自信を持っていたと思うので、その真っ直ぐしか狙っていなかったですね。ちょっと甘く入った真っ直ぐを、と思っていました。相手が一番自信を持って投げてくる球を仕留めてホームランを打ったら気持ちがいいし、相手も、そんな球を打たれたら悔しいじゃないですか」
“来た球を打つ”ということは、ボールが投手の手を離れてから球種とコースを判断して打つか否か決める反応型のバッティングで、選球眼とスイングスピードが優れていなければ不可能だ。それが可能な身体能力があっても、“読み”で始動する打者よりスイングに使える時間は圧倒的に短い。つまり難易度が高く、ミスも多くなる。
しかも中田には高校2年生だったこの夏の時点で、相手のベストピッチを仕留めてこそ、というプロの4番のようなこだわりがあった。相手の攻撃を正面から受けて倒す、という横綱相撲にも通じる美学は、圧倒的な力量差がなければ成立しない……このときの中田には付け入る隙が幾つもあったに違いない。
二人の勝敗の分岐点は、心理的な要素だった。
試合は早実が、開始早々の1回表に1点先制。大阪桐蔭には想定外のすべり出しだったろう。中田の第1打席は1回裏、2死ランナー二塁、という場面で回ってきた。いきなりビハインドを帳消しにするチャンスだ。しかし、中田の斎藤に対する第一印象は「実際に打席に立つと手元で伸びてくる感じで、ビデオのイメージとは全然違った」という。
この翌日、一般紙でも二人の4打席の対決が大きく取り扱われていて、最初の打席で中田が内角高目のボールを空振り三振し、それが早実バッテリーの狙い通りだったという解説があった。中田の見つめるモニターに、その場面が映し出される。外角一辺倒の配球でカウント2-2となったあとの6球目は146kmのストレート。顔の脇を過ぎるボール球を払うように中田のバットが空を切った。
「これですよね。力んでしまっていただけだと思います。そうでなかったら、あんなボールに手を出すはずもないし、その前の甘い球を仕留めているはずですからね」
二人の勝敗の分岐点は第1打席から、技術的なことではなく心理的な要素だった。
早実は3回表にも4点を加えて0対5。大阪桐蔭には信じられない展開だったに違いない。それでも3回裏に2番打者のツーランで2点返し、3点のビハインドで迎えた大阪桐蔭4回裏の攻撃。ここで加点できれば試合の流れを奪うことができる、という場面の先頭打者として中田の第2打席が回ってきた。しかし、初球を見送った様子を見た瞬間、中田は投げ捨てるように言った。
「今のような甘い球に手を出さない時点で終わってますね。そんなに球速もないし、真ん中寄り。あれに手を出さない時点でピッチャー有利ですよ」
(続きは Number734号 で)
中田 翔
1989年4月22日、広島県生まれ。’05年、大阪桐蔭高校に入学し、春夏合わせて3度甲子園に。高校通算87本塁打は歴代最多。’08年、北海道日本ハムに入団。一軍では未だ本塁打はないが今年のイースタン・リーグ21本塁打でトップを独走中(7月23日現在)。182cm、95kg
斎藤佑樹 176 cm 76 kg
田中将大 190.5 cm 97.5 kg
斎藤佑樹だけじゃない…プロで輝けなかった高校野球のスターたち【投手編】
“苦悩のドラ1”だったのが、辻内崇伸(大阪桐蔭)だ。2005年夏の甲子園に出場すると、左腕投手として当時最速の156キロを計測し、大会最多タイ(当時)の1試合19奪三振もマーク。同年秋のドラフトで巨人とオリックスから1巡目指名を受けた。しかし、巨人入団後は制球難に悩まされるとともに肘、肩と度重なるケガにも苦しみ、在籍8年間で1軍未登板のまま2013年オフに戦力外通告を受けて現役引退。引退後は、日本女子プロ野球機構の指導者となり、現在は埼玉アストライアのヘッドコーチを務めている。
その辻内よりも前に甲子園を沸かせた黄金左腕が、川口知哉(平安)だった。1997年の甲子園に春夏連続で出場し、切れ味抜群のカーブを武器に夏の大会で準優勝。インタビューでのビッグマウスぶりでも注目を集め、将来のエース候補として、オリックス、近鉄、ヤクルト、横浜の4球団からドラフト1位指名を受けた。だが、オリックス入団後はフォームを崩し、在籍7年で1軍登板9試合(0勝1敗)のみで引退。建設業で働いていた後、2010年から辻内と同じく女子プロ野球のコーチを務め、現在は兵庫ディオーネのヘッドコーチになっている。
このふたりよりも甲子園で大きな歓喜を味わったのが、“トルネード左腕”島袋洋奨(興南)である。2年時から春夏連続で甲子園出場を果たすと、3年生となった2010年は史上6校目の春夏連覇を達成し、松坂大輔と並ぶ歴代5位の甲子園通算11勝、左腕投手歴代最多の年間102奪三振をマークした。だが、進学した中央大の2年時に左肘を故障して以降は不振。ソフトバンクにドラフト5位で入団し、1年目の2015年に1軍2試合に登板したが、その後は左肘の違和感が消えずに今年8月に遊離軟骨除去の手術を受けて10月に戦力外通告。現在は育成選手としての再契約が検討されているという状況だ。
平成最初の夏を沸かせたのは、大越基(仙台育英)だった。威力抜群のストレートを武器に元木大介ら擁する上宮を破って決勝まで勝ち上がり、帝京との激戦の末に延長負けを喫したが、その熱投で多くの高校野球ファンの心を動かした。
だが、プロからの誘いを断って早稲田大に進学するも半年で退部。アメリカへ渡った後、ダイエーから1位指名を受けてプロ入りを果たしたが、投手としては通用せずに1994年に13試合に登板したのみで未勝利のまま野手転向。高い運動能力で守備・代走要員として活路を見いだしたが、スターだった甲子園での輝きは最後まで取り戻すことはできなかった。2003年に引退後は教員免許を取得し、現在は山口県の早鞆高校の野球部監督を務めている。
その他、正田樹(桐生一)も、2002年に9勝を挙げて新人王には輝いたが
森尾和貴(西日本短大付)
彼ら以外にも、高校時代で燃え尽きてしまった投手は数知れない。
◆これ自分でかいたの?
◆大学へ行こうが行くまいが結果は同じ。最初からパッとしてないよ。ハンカチ先行で才能がないだけ。
◆よりにもよって早稲田に行ったのがね…
◆今となっては、大学進学は1つの要因ですかね。斎藤は大学までは何とか通じた実力でしたが、大学の間、プロに行くための準備や練習を欠いたのではないかと思います。また、早大側も、そうしたことを視野に置いた指導をしなかったのではないでしょうか。
早実の時の斎藤の躍動するような体のバネが、大学時代は徐々に見られなくなりました。もともと体の柔軟性はあまりないようです。
斎藤が豪速球タイプでないことは致し方ないのですが、それでも、彼の投球フォームはどうしても上半身頼みのところがあり、マウンドの傾斜、足のステップを、最終的に腕の振りに伝達していく連動が弱い感じを受けます。まず、足をそっと着地して型を作り、そこから上半身の力だけで投げ込んでいる印象があります。
これと関連するのですが、体全体の力をうまく使えていないため、球質も限界があります。変化球を多種類持っている割に、キレがないため、カットなどで対応されてしまう。楽天の岸のチェンジアップなんて見事です。バッターのかなり手元までスーッと言ってキュッと落ちる。
そうなるとコントロールピッチャーとしてしか道がないのですが、それなら、ボール1つ分の出し入れと言うようなコントロールの精度と、投球の組み立てについて、深めなければなりません。
斎藤も大学以降、良き指導者に巡り合えていないとも言えます。自己の努力も大事ですが、どこかの時代に、技術のベースを指導してくれる良き指導者がいないと、彼も上がって来れないように思います。
◆自分は持ってる❗とか言うて勘違いして遊び呆けたって事でいいんじゃないの。
◆ピーク時が高校の時って言われてるし、大学の成績を見ても高卒でプロ入りしててもそんなに変わらない
田中と差が開いたっていうか元から田中の方が評価は上
脂肪測定システム

コメント